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Channel: 京都大学 大学院文学研究科・文学部
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オックスフォード大学・ケンブリッジ大学短期研究型プログラムの参加者募集について

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文学研究科・人間・環境学研究科博士後期課程在籍者及びアジア・アフリカ地域研究研究科博士課程3年次在籍者を

対象に、以下のとおり募集しています。

内容:派遣先の教員の指導を受けながら、1学期間の非正規生として研究活動と資料収集を行う。

大学指定のカレッジ(学寮)に宿泊する。

期間: 2014年1月中旬~2014年3月中旬

奨学支援内容: 授業料・往復渡航費・現地交通費・滞在費を支給。海外旅行保険は自己負担。

募集人員:オックスフォード2名、ケンブリッジ1名

参加希望者は、応募書類を 留学生課教育支援掛に、9月13日(金)17:00 までに提出してください。

プログラム詳細及び応募書類は、国際交流センターHPにてダウンロードしてください。


【募集】「世界の日本研究」動向調査プロジェクト(9/20〆)

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「世界の日本研究」動向調査プロジェクト

9月28・29日に文学研究科にて開催されるEAJS(ヨーロッパ日本研究協会)日本会議に出席して研究発表を聴き、それに基づいて世界の日本研究の動向につき調査レポートを作成し、後日の報告会で発表してくれる京都大学院生・若手研究者を募集します。参加費相当の6000円を支給します。多様な分野からの参加を期待しています。

条件:
1)少なくとも5セッション以上を聴いて調査レポートを作成すること。ただし、9月27日に国際日本文化研究センターにて開催されるプレコンファレンス「日欧交流500年紀を前に-航路の形成と情報の拠点」を1セッションと数えてもけっこうです。
2)若手研究者とは、京都大学で研究活動に従事する研究員・研修生・教務補佐・PD・ODなど。
3)人数:30名程度を予定。
4)事前登録が必要ですので、忘れないでください。
5)報告会:10月中の昼休みに2,3回に分けて開催予定。

申込み方法:
本プロジェクトへの参加希望者は、①氏名、②所属・学年、③専門分野、④出席を希望するセッション(予定)を明記して、アジア研究教育ユニット支援室(asean6.office★bun.kyoto-u.ac.jp:★→@に変えてください)まで申し込んでください。

関連サイト
EAJS日本会議
日文研プレコンファレンス

【応募要項】第6回次世代グローバルワークショップ

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アジア研究教育ユニットは、第6回次世代ワークショップ(2014年1月13-14日、於:京都大学・稲盛記念館)における報告者を公募しております。興味を持たれた方は、Application Guidelinesを熟読の上、ぜひご参加ください。
詳細はこちら

CAPEワークショップ:『デカルトをめぐる論戦』をめぐる論戦

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CAPEワークショップ:『デカルトをめぐる論戦』をめぐる論戦

日時:2013年7月6日(土)16:00-18:00 15:00-18:00(2013年7月4日追記)
場所:京都大学楽友会館

http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/profile/intro/facilities/kyoshokuin/rakuyu/access.htm

内容:2013年3月に刊行された上掲書に関する合評会。全体の講評ならびに登壇者執筆部分についての再反論と再答弁を行なう。
登壇者:安孫子信(法政大学)、中釜浩一(法政大学)、松田毅(神戸大学)、出口康夫(京都大学)、戸田山和久(名古屋大学)、小林道夫(龍谷大学)

CAPEワークショップ: 哲学とインド学のコラボレーション Aspects of Philosophy of Language

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CAPEワークショップ: 哲学とインド学のコラボレーション Aspects of Philosophy of Language

期日: 2013年8月3日(土)午前10時から午後6時まで
場所:京都大学楽友会館第6会議室)
オーガナイザー:出口康夫(哲学:京都大学)、桂昭隆(仏教学:龍谷大学)
発表者:小川英世(インド哲学:広島大学)
岩崎陽一(インド哲学:東京大学)
コメンテーター:八木沢敬(哲学:CSUD)

共催:
「空の論理の再構築」科学研究費研究プロジェクト(代表:出口康夫(京都大学))
「インド哲学諸学派における<存在>をめぐる議論の解明」(代表:丸井浩(東京大学))
京都大学アジア研究教育ユニット

第22回CAPEレクチャー:Collective and individual rationality: a puzzle about disagreement.

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第22回CAPEレクチャー:Collective and individual rationality: a puzzle about disagreement.
2013年8月5日15時~   文学研究科第八講義室(総合2号館地下)
講師: Carlo Martini(Finnish Centre of Excellence in the Philosophy of
the Social Sciences (TINT), Postdoctoral researcher)

【案内】Prof. Stevi Jacksonのセミナー:2013/9/20(金)

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下記の通り、Stevi Jackson (The University of York)によるセミナーが、

9月20日(金)に文学部東館2階257号室(=KUASU多目的室)で開催されます。

是非ご参加ください。

ポスターはこちら (PDF)

Jonathan Floyd講演会

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この度、オックスフォード大学のJonathan Floyd氏を同志社大学にお迎えし、
10月25日(金)の午後5時30分から、講演会を開催することになりました。

Jonathan Floyd (Department of Politics and International Relations,
Oxford University)
http://www.politics.ox.ac.uk/index.php/profile/jonathan-floyd.html

Floyd氏は、政治哲学・政治思想をご専門とされていらっしゃいますが、この度は、
学問としての政治哲学の性質についてお話いただきます。オックスフォードの政治哲学・
政治思想研究の現在の様子についても触れていただく予定ですので、ご関心のある方は、
是非、ご参加ください。

共催 京都大学大学院文学研究科応用哲学・倫理学教育研究センター/同志社大学法哲学研究室
日時 10/25(金) 午後5時30分から午後7時30分
場所 光塩館1階第1共同研究室(午後6時をすぎましたら、施錠されますので、
入り口にある電話で第1共同研究室へ内線をおかけください)。

(同志社大学光塩館)
http://www.doshisha.ac.jp/information/campus/imadegawa/imadegawa.html?koenkan_building#campusmap

タイトル:’Thoughts and Principles: On the standard model of political philosophy’

報告概要:もし哲学が「思考についての思考(thinking about
thinking)」であるとしたら、政治哲学とはどのようなものであろうか。実践においては、政治哲学はある種の思考についての思考であり、しかもある種のプロジェクトが念頭に置かれているように思われる。この実践は以下のようなものである。第一に、われわれは正・不正についての熟慮の上での信念–理に適った人々であれば、十分な内省の後に合意すると思われる信念–を取り出す。第二に、われわれはそのような思考にパターンを探し出す。それらの信念を基礎づけると思われる原理はどのようなものか。どのような道徳的あるいは政治的理論が採用されたならば、重力についての理論がリンゴが木から落ちる仕方を予測するのと同じような仕方で、そうした信念の存在を予測することができるだろうか。第三に、われわれはそのような原理を、われわれが確信が持てずまた今日はわれわれの間で意見が一致しないような領域–たとえば、理想的な社会における権利や機会や所得の適切な分配–に適用しようとする。そこで、われわれはある種の思考(われわれがすでに持っている正・不正についての信念について反省すること)と、ある種のプロジェクト(そうした信念を基礎付け、困難な政治的決定の助けとなる原理を探すこと)を持つのである。しかし、この方法、すなわち私が政治哲学の「標準的モデル」と呼ぶものは、われわれがいくら頑張ったとしてもうまくいかないであろう。というのは、政治哲学者の関心を引くような正・不正についての様々な種類の信念を子細に検討すると、どうしてよいかわからないほどの不整合と矛盾が見い出されるからである。われわれの精神は、われわれが自分の心の内に見い出す矛盾や混乱を考えてみれば、道徳的データのソースとしてはわれわれをがっかりさせるものである。だとするとわれわれはその代わりにどうすべきだろうか。私の答えはこうである。われわれは自分たちの思考のパターンよりも自分たちの行動のパターンにより関心を持つべきである。数十億もの人々が異なる政治的環境において行動する仕方に様々なタイプがあることを見て取ることにより、われわれは政治哲学をする仕方には全く異なった仕方があることを理解できる。英語には「行動は言葉より声が大きい(action
speaks louder than
words)」という言い回しがある。私がここで主張するのは、行動は思考よりも声が大きいということである。より正確に言えば、私が今回論じるのは、ある種の行動は、さまざまな政治的制度の価値(とその制度が体現する原則)について、われわれが通常関心をもついかなる種類の思考(そこには、正・不正に関する熟慮の上の信念も含まれる)よりも、明確に表現しているということである。


学生表彰制度による被表彰学生の推薦について(京都大学総長賞)

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本学学生を対象とした学生表彰制度(京都大学総長賞)について、学務部学生課より通知がありましたので

お知らせいたします。

該当があれば自薦・他薦を問いませんのでご応募ください。

 

※詳細は、京都大学ホームページ(学生表彰制度による被表彰学生の推薦について) をご覧ください。

Nick Smith 講演会

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CAPE セミナー
講師 Nicholas J.J. Smith (Associate Professor, University of Sidney)

日時 11月1日(金)16:30- 18:00
場所 京都大学文学研究科第一講義室
題目 Fuzzy Logic and Higher-Order Vagueness

The major reason given in the philosophical literature for dissatisfaction with theories of vagueness based on fuzzy logic is that such theories give rise to a problem of `higher-order vagueness’ or `artificial precision’.  In this talk I first outline the problem and survey suggested solutions: fuzzy epistemicism; measuring truth on an ordinal scale; logic as modelling; a hierarchy of fuzzy metalanguages; truth values with an internal hierarchical structure (blurry sets); and fuzzy plurivaluationism.  I then argue that in order to decide upon a solution, we need to understand the true source of the problem.  Two possible sources are discussed: the problem stems from the very nature of vagueness (i.e. from the defining features of vague predicates); or the problem stems from the way in which the meanings of predicates are determined (by the usage of speakers together with facts about their environment and so on).  I argue that the latter is the true source of the problem — and on this basis, that fuzzy plurivaluationism is the correct solution.

2013年後期「外国語読書会」

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2013年度後期「外国語読書会」

ラインナップ

ロシア語

日本について、ロシア語で読む:

コヴァリチュク『日本と日本人:観光ガイドが語らないこと』

115日(火)1700分開講

以降、毎週火曜日17時~18時開催

12演習室

(共同研究2号館B1

概要

ロシアで刊行された日本紹介の本を読みます。外国人の目に映る日本像、また外国で日本の社会や文化がどのように伝えられているかを知る手掛かりになるでしょう。すべてのロシア語学習者とロシア語使用者のご参加をお待ちいたします。(参加者の要望次第では別のテキストを読む可能性があります)

イタリア語

ベネデット・クローチェの評論

「なぜ我々は自らをキリスト者と呼ばざるをえないか」を読む

開講日、開催曜日・時間は不定

(参加者と相談の上、随時、調整いたしますので、

まずはお問合わせください)

イタリア語学イタリア文学

研究室

(文学部校舎6F

概要

信仰を持たない哲学者クローチェが発表した問題作、「なぜ我々は自らをキリスト者と呼ばざるをえないか」を読みます。キリスト教は、欧米文化を考える上で避けては通れないとても重要な要素なのですが、困ったことに、私たち日本人にとってはどうしてもよく理解できないもののように思えます。この評論はイタリア人とキリスト教との関係を考えるきっかけとなるはずなので、本読書会においては、読解のみでなく、討論の時間も設けられればと考えています。テクストはやや難しいものですが、興味がある方は、イタリア語の初心者であっても、ぜひ一度参加してみてください。

韓国語

韓国語文法講座&韓国語読書会

111日(金)1300分開講

(まずは「文法講座」から)

以降、毎週金曜日13時~1430分開催

キリスト教学研究室

(文学部校舎8F

概要

本講座では、アカデミックな韓国語を習得するために、cultural, grammatical, literary competenceの向上を試みます。「文法講座」は初級文法から段階を追って基本的な説明を行います。また「読書会」では、前期に引き続き玄 鎮健の『運が良い日』を読みます。文学作品を通して、韓国の歴史や伝統、社会文化全般に対する理解を深めると共に、韓国語のコミュニケーション能力を養うことも目指します。

★★★

受講のお問合せ・お申し込みは以下まで。

gaikokugo@bun.kyoto-u.ac.jp

2013年度読史会大会

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※会場費500円 一般来聴歓迎
日時 2013年11月3日(日・祝)
場所 京都大学百周年時計台記念館 国際交流ホール

プログラム
10:00 受付開始
10:30 開会
10:40 研究報告
①黒羽 亮太「〈観隆寺陵〉」
②谷 徹也「豊臣政権の算用体制」
12:00 昼食休憩
13:30 研究報告
③山田 淳平「近世武家雅楽の展開」
④吉川 絢子「朝鮮における離婚訴訟の登場(仮)」
⑤黒岩 康博「『寧楽』と南都の蒐集家たち」
15:30 写真撮影・休憩
16:10 研究報告
⑥田島 公「古典籍の伝来と知識体系の継承の歴史的特質―摂関・院政期を中心に―(仮)」
⑦横田 冬彦「禁裏御典医百々家と近世京都の医療環境」
17:30 閉会
17:50 懇親会

CAPEレクチャー:ヒルベルトの有限主義

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CAPEレクチャー:ヒルベルトの有限主義

日時:2013年10月31日(木)18:00から
場所:京都大学吉田キャンパス総合研究棟2号館第10演習室
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/access/campus/map6r_y.htm
(34番の建物です)

講演者:Prof. Dr. Matthias Schrin (ミュンヘン大学)
演題:Hilbert and Wittenstein on the Consistency of Mathematical Theory

Abstract:  This talk consists of two parts. The first part is almost entirely devoted to a discussion of Hilbert’s finitist metamathematics in the 1920s, with particular emphasis on his conception of finitist consistency proofs for formalized mathematical theories T. When Hilbert wrote his famous essay ‘On the Infinite’ (1925-1926), his proof theory of the 1920s had grown to full maturity. It is here that he pays special attention to describing what is usually called “the method of ideal elements”, such as the postulation of points and lines at infinity in projective geometry or the postulation of the existence of n roots for an n-th degree polynomial in algebra.  In subsequent smaller sections, I try to shed light on some difficulties to which Hilbert’s metamathematics of the 1920s gives rise. One serious difficulty that I discuss is the fact, widely ignored in the pertinent literature on Hilbert’s programme, that his language of finitist metamathematics fails to supply the conceptual resources for formulating a consistency statement qua unbounded quantification. Another difficulty emerges from Hilbert’s illicit assumptions of infinity in metamathematics. On the way, I shall comment on the relationship between finitism and intuitionism, on W. W. Tait’s objection to an interpretation of Hilbert’s finitism by Niebergall and Schirn as well as on partial realizations of Hilbert’s programme, chiefly advocated by S. G. Simpson.

 

In the second part of my talk, I take a critical look at Wittgenstein’s views about (in)consistency and consistency proofs in the period 1929-1933. I argue that his insouciant attitude towards the emergence of a contradiction in a mathematical calculus as well as his outright rejection of metamathematical consistency proofs are unjustified. In particular, I argue — by way of presenting an imaginary dialogue between Wittgenstein and Hilbert — that Wittgenstein falls short of making a convincing case against Hilbert’s proof-theoretic project. I conclude with philosophical remarks on consistency proofs and the notion of soundness.

CAPEレクチャー:Justin Erik Halldór Smith講演会

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日時:2013年11月12日(火)午後2:45 〜4:15
場所:京都大学文学部棟1階会議室
演者: Prof.  Justin Erik Halldór Smith (Professeur des Universités Département d’Histoire et Philosophie des Sciences Université Paris Diderot – Paris VII  Paris, France)
タイトル:Lunar Astronomy and Philosophy from Plutarch to Kepler

 

Why did so many philosophers in antiquity and the early modern period deploy thought experiments involving the moon?

What were their systematic and conceptual ends in this exercise?

In ancient astronomy,the moon served as an important boundary between two very different domains of nature, sometimes called the ‘superlunar’ and the ‘sublunar’ (or the ‘celestial’ and the ‘terrestrial’), which were subject to very different laws, not least the laws of generation, corruption, and motion.
The moon was also presumed, unlike the higher celestial bodies, to be in at least some traffic with the earth, with elements, and perhaps also beings, presumed to travel back and forth.
So to which side of the boundary did the moon itself belong?
In this talk, I would like to argue that it was precisely thisquestion that made the moon a fertile source of *Gedankenexperimente.*
From the utopian political subtexts of lunar science fiction of such authors as Cyrano de Bergerac, to the arguments for relativity in Johannes Kepler’s * Somnium*, the moon facilitated the
conceptualization of models of reality that could not be nearly so easily constructed on earth.
Thus people were effectively going into outer space, in the name of advancing theoretical understanding, long before such a feat was actually technically possible.
The way such thought experiments proceed,and what their real utility and pay-off are, may be important, I shall argue, for our understanding of the method of science more generally.

CAPEレクチャー:Colin R. Caret講演会

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CAPEレクチャー:Colin R. Caret講演会

日時:2013年11月18日(月)午後1:00 〜2:30
場所:京都大学文学部東館2階257室「KUASU多目的室」
演者: Prof.  Colin R. Caret (Underwood International College:Yonsei University)http://sites.google.com/site/colincaret/
タイトル:Form as Substance in the Zhuangzi

Abstract: The Zhuangzi is a famously difficult text to interpret. The style is chaotic and parodical. The short stories and rambling prose are often preoccupied with the issue of divergent perspectives, not only between people but also between species. The author expresses a hostile attitude toward claims to knowledge. For these reasons, it has been common to interpret the Zhuangzi as a skeptical and relativistic text. I argue that there is a much more interesting interpretation available. On my interpretation, the central message of the Zhuangzi is that discursive inquiry rests on a mistaken presupposition that there is a sensible concept of ‘objective truth’. This interpretation has the virtue that it explains not only the content of the text, but also its form.


キャリアガイダンス in Tokyo を開催しました

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さる9月28日(土)、東京神田の學士會舘において、文学部、文学研究科学生33名、在京企業11社の参加のもと、キャリアガイダンス in Tokyo を開催しました。

このガイダンスは、京大以文会、キャリアサポートルームとの共催で、昨年度から実施されたもので、11の企業ブース及びキャリアサポートルームの相談コーナーを設定し、1回あたり30分の懇談時間の中で、参加学生が、思い思いの企業を訪問し、懇談するかたちをとりました。また、企業からは一線で活躍している文学部OB、OGを派遣していただきました。

参加学生からは、「とても有意義な時間を過ごせた」「進路を考えるうえで、とても参考になった」等の声が、企業側からも、「参加学生の熱意を感じた」「来年度も是非参加したい」等の声が寄せられました。

文学部、文学研究科では、これからもますます在学生のキャリア支援に取り組んでいきたいと考えています。

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CAPEレクチャー:Michael Campbell講演会

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日時:2013年11月26日(水)午後5:00 〜

場所:京都大学文学部一階会議室
演者:Michael Campbell

abstract

In an influential series of works (1986, 1990, 2013), David Gauthier has propounded a conception of morality on which its requirements are necessary if individuals are to take the most effective route to the satisfaction of their interests. This is a seductive claim, amounting to the contention that we can see that moral norms are justified if we have a clear view of our non-moral purposes. Recently, Gauthier’s work has been applied in the context of global health. It has been argued that a certain minimal redistribution of healthcare resources (from wealthier to poorer countries) is morally required, because it is in the interests of wealthier nations when those are considered across generations. In the following paper I discuss this argument. I suggest that while there is a moral duty for more developed nations to ensure a more equitable distribution of healthcare resources, a Gauthier-style argument for this conclusion fails to carry conviction. Such an argument shares the flaw common to all attempts to ground moral requirements on self-interest; namely, that our confidence in any empirical hypothesis about the congruence of morality and self-interest is less certain than, and is in fact derivative upon, our confidence in the moral requirements which that hypothesis is supposed to justify. I will attempt to demonstrate this in the case of global healthcare, and, in so doing, will provide an alternative conception of the nature of collective responsibility and its relation to self-interest.

gkp-2013FPT

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The International Conference “A Frontier of Philosophy of Time”

The International Conference

“A Frontier of Philosophy of Time”

The conference “A Frontier of Philosophy of Time” aims to promote international communication among philosophers working on time and its related areas, including metaphysics, logic, linguistics, philosophy of science, etc.

DATES and VENUE:
30th Nov. (Sat.) and 1st Dec. (Sun.) 2013
Conference Room (basement), Faculty of Letters Main Bldg., Yoshida Campus of Kyoto University

Invited speakers include:
David Braddon-Mitchell, Richard Dietz, Tora Koyama, Chunghyung Lee, Raamy Majeed, Ulrich Meyer, Kristie Miller, Takeshi Sakon, Katsuhiko Sano, Ikuro Suzuki, Jonathan Tallant, Sho Yamaguchi, Tsuyoshi Yokoo

(Totally 13 speakers listed in alphabetical order.)

Throughout the meeting, English will be used as public language. Those who are interested in FTP are all welcome to participate. Admission to the conference is free, and no booking is required.

FPT is supported by Center for Applied Philosophy and Ethics (CAPE) and sponsored by the Kyoto University general fund.

URL: http://fptconference.web.fc2.com/A_Frontier_of_Philosophy_of_Time/FPT_Top.html

Organizer: Takeshi Sakon (tsakon2009[at]gmail.com)

CAPEレクチャー:Kevin Kelly講演会

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CAPEレクチャー:Kevin Kelly講演会

日時:2013年12月26日(木)16:30~18:00
場所:京都大学文学部校舎1階会議室

(8番の建物です)
講演者: Prof. Kevin Kelly (Carnegie Melon University)
タイトル: Knowability, Inquiry, and Epistemic Logic

Abstract:  The question “what is knowable?” serves as the point of entry into the systems of Plato, Descartes, Locke, Hume, and Kant.  Traditionally, the focus was on the scope and prospects of scientific inquiry.  For example, Kant held that such apparently empirical questions such as “the universe had a beginning in time” and “matter is infinitely divisible” are un-knowable because they out-run all possible experience.  Contemporary possible worlds models for “s knows that p” merely assign an unanalyzed, static knowledge state to the agent, so they cannot begin to model Kant’s concerns.  Instead, the focus has shifted to arcane examples of un-knowability based on self-reference, such as the Moore sentence: “p and I do not know that p”.  In this talk, I propose a new, learning semantics for knowledge in which the knowing agent is modeled explicitly as a learner who modifies her sentential beliefs according to a concrete, computable learning method that receives raw, non-linguistic inputs from an unstructured world-in-itself.  Kant is vindicated in the sense that  the answers to his questions are un-learnable.  But learnability is not closed under logical consequence.  Insistence upon deductive closure for knowability motivates a concept of knowing weaker than having learned, in the sense that one would merely have to avoid error eventually, rather than find the truth eventually, if p were false.  Then Kant’s examples are knowable but not learnable, so Kant was too pessimistic.  The distinction between learnability and knowability connects the deductive closure of knowability with traditional philosophical discussions of serendipity, Duhem’s problem, and the logic of discovery.  Finally, the proposed semantics explains how you can know your own Moore sentence (although you wouldn’t want to) so standard epistemic logic is unsound even on its own examples.

宗教学研究室紀要 第10号(2013年)

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