この度、オックスフォード大学のJonathan Floyd氏を同志社大学にお迎えし、
10月25日(金)の午後5時30分から、講演会を開催することになりました。
Jonathan Floyd (Department of Politics and International Relations,
Oxford University)
http://www.politics.ox.ac.uk/index.php/profile/jonathan-floyd.html
Floyd氏は、政治哲学・政治思想をご専門とされていらっしゃいますが、この度は、
学問としての政治哲学の性質についてお話いただきます。オックスフォードの政治哲学・
政治思想研究の現在の様子についても触れていただく予定ですので、ご関心のある方は、
是非、ご参加ください。
共催 京都大学大学院文学研究科応用哲学・倫理学教育研究センター/同志社大学法哲学研究室
日時 10/25(金) 午後5時30分から午後7時30分
場所 光塩館1階第1共同研究室(午後6時をすぎましたら、施錠されますので、
入り口にある電話で第1共同研究室へ内線をおかけください)。
(同志社大学光塩館)
http://www.doshisha.ac.jp/information/campus/imadegawa/imadegawa.html?koenkan_building#campusmap
タイトル:’Thoughts and Principles: On the standard model of political philosophy’
報告概要:もし哲学が「思考についての思考(thinking about
thinking)」であるとしたら、政治哲学とはどのようなものであろうか。実践においては、政治哲学はある種の思考についての思考であり、しかもある種のプロジェクトが念頭に置かれているように思われる。この実践は以下のようなものである。第一に、われわれは正・不正についての熟慮の上での信念–理に適った人々であれば、十分な内省の後に合意すると思われる信念–を取り出す。第二に、われわれはそのような思考にパターンを探し出す。それらの信念を基礎づけると思われる原理はどのようなものか。どのような道徳的あるいは政治的理論が採用されたならば、重力についての理論がリンゴが木から落ちる仕方を予測するのと同じような仕方で、そうした信念の存在を予測することができるだろうか。第三に、われわれはそのような原理を、われわれが確信が持てずまた今日はわれわれの間で意見が一致しないような領域–たとえば、理想的な社会における権利や機会や所得の適切な分配–に適用しようとする。そこで、われわれはある種の思考(われわれがすでに持っている正・不正についての信念について反省すること)と、ある種のプロジェクト(そうした信念を基礎付け、困難な政治的決定の助けとなる原理を探すこと)を持つのである。しかし、この方法、すなわち私が政治哲学の「標準的モデル」と呼ぶものは、われわれがいくら頑張ったとしてもうまくいかないであろう。というのは、政治哲学者の関心を引くような正・不正についての様々な種類の信念を子細に検討すると、どうしてよいかわからないほどの不整合と矛盾が見い出されるからである。われわれの精神は、われわれが自分の心の内に見い出す矛盾や混乱を考えてみれば、道徳的データのソースとしてはわれわれをがっかりさせるものである。だとするとわれわれはその代わりにどうすべきだろうか。私の答えはこうである。われわれは自分たちの思考のパターンよりも自分たちの行動のパターンにより関心を持つべきである。数十億もの人々が異なる政治的環境において行動する仕方に様々なタイプがあることを見て取ることにより、われわれは政治哲学をする仕方には全く異なった仕方があることを理解できる。英語には「行動は言葉より声が大きい(action
speaks louder than
words)」という言い回しがある。私がここで主張するのは、行動は思考よりも声が大きいということである。より正確に言えば、私が今回論じるのは、ある種の行動は、さまざまな政治的制度の価値(とその制度が体現する原則)について、われわれが通常関心をもついかなる種類の思考(そこには、正・不正に関する熟慮の上の信念も含まれる)よりも、明確に表現しているということである。